2010/2/1  1:18

暮尾 淳「詩人アナキスト秋山清 キナ臭い現代に復活」  反響集

 札幌の高校を卒業して東京の私立大学に入ったわたしが、初めて出会った大人の詩人は秋山清だった。1960年早春、二十歳になろうとしていたばかりの物知らずのわたしを、初対面にもかかわらず対等に遇してくれ、優しい笑顔を絶やさない三十五も歳上のこの詩人に、わたしは一目で魅せられてしまい、以後親炙するところとなり、それは1988年、八十四歳での死まで続いた。いや親炙という意味合いでいうならば、近づき親しんで感化を受けるということは、今でも続いている。「そっとこいねがうものは、煤ぼけた明治のこの方の自由と平等」と詩に書いた秋山は、その願いを手放さず、詩人としては数多くの論稿や著作を残してくれたからである。それらを読むと、わたしいつでも秋山に会うことができるし、その度に今を考え直す何かを見いだす。今回著作集編集委員の一人に加えてもらったことを、わたしは泉下の詩人に深く感謝している。
 秋山清は1904年(明治37年)、現在は北九州市に属する周防灘を臨む漁村に生まれ、漁民部落の相互扶助の生活のなかで育ち、上京して働きながら日本大学予科に入学(中退)、自由の少ない時代に自由を求める反権力権威の思想としてアナキズムを自らに課し、戦前は局清や高山慶太郎などの名でプロレタリア詩や批評を書いた。小野十三郎と二人で編集した詩誌「弾道」では、更科源蔵らの「北緯五十度」を「農本主義的な人道主義」であるとして激しく論争を挑んだりしたが=1930年(昭和5年)=、秋山清を他の詩人から抜きんでさせたものは、あの太平洋戦争下を辛くもくぐりぬけた詩人としての矜持であった。無政府共産党事件で検束された思想的「前歴」を持つ秋山のところには、週一、二回の憲兵あるいは特高の来訪があったという。近代総力戦争における国家権力の下で民衆が生きるしかなかった当時を振り返り、「孤立のかなしみ」=初出1959年=に秋山は次のように書いた。
 「私は深い洞察と先見の明があって、そのような態度を(日本文学報国会に入らず賛戦詩を書かない―暮尾注)とったのではなかった。世界の情勢もわからず、日本の頽勢もじっさいのことを知っていたのではない。無惨に敗北をするということもまだ確実には知っていない。ただ、戦争のために民衆の生活が不自由になり、貧しくなり戦争に皆駆り出されることに、ついてゆけないという自分の奥底の思いを否定しなかった。それは日本の社会主義の伝統を、忘れなかったからである。」
 文学を以って国に報いるという日本文学報国会は、内閣情報局の指導監督下で文学者を統制した団体で、詩人のほとんどは会員となった。あるいはならざるを得なかった。秋山は勧誘されても、何とかかんとか言い逃れて加入しなかった。「孤立のかなしみ」とは、高村光太郎はもちろん多くの知人友人が、文学報国会などの活動にやがて積極的に加わり、賛戦詩を書くことで、自分との距離がしだいに離れて行ったことをいう。しかしこの「孤立のかなしみ」に耐えることにより、秋山は多数から離れ、自我の真底からの崩壊を防ぐために、戦争下の一庶民として揺れながらも不同調のおもいをひっそりと詩に込め、業界紙の片隅などに載せることができた。敗戦後にそれらの詩篇を読んだ吉本隆明は、「ああこんな嘘のない真っ当な抵抗詩を戦争期に書き記していた詩人がいたんだ」と高く評価したが、小さな詩集「白い花」としてまとめられたのは、1966年のことであった。
 戦後の秋山は戦争下のこの苦い体験を噛み締めながら「人民詩精神」を掲げて金子光晴らと「コスモス」を創刊し、初期の新日本文学会にも力を注ぎ、一貫してアナキズムの思想的立場から文学に携わり、人間の自由とその社会の在り方を追及した。だがその死後は知る人ぞ知るというような存在だった。「日本の反逆思想」「ニヒルとテロル」「竹久夢二」「近代の漂泊」「文学の自己批判」「アナキズム文学史」などの著作は絶版のままだったが、今回全十一巻と別巻一(資料・研究篇)の「秋山清著作集」(ぱる出版)が完結し、その全貌を知ることができるようになった。何やらキナ臭い管理社会の現代に、詩人アナキスト秋山清は蘇ったのである。

(『北海道新聞』07.7.17付夕刊)
12



コメントを書く


この記事にはコメントを投稿できません




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ