2010/7/1  10:00

【秋山清詩選@ 「半裸」】  秋山清詩選

半 裸

一九五八年八月某日。
アパートの一室は三三度四の無風帯だ。
シュミーズ一枚で
G子はねむっている。
あれを着て出かけよう。
ねむりのなかでG子はアルサロにゆくことをおもっていた。
半裸の人びとが銃をとって
樹木が一本もみえない焼けた土砂のうえを
はだしで歩いている。
スエズの動乱から三年。
イラクの革命政府を日本は承認した。
気温が四五度をこえるシリア、ヨルダン、レバノン。
砂漠と石油の国。
東地中海から
ペルシャ湾におよぶ回教民族たちは
テント張りの茶店にねそべって
強力電波のカイロ放送からナセルのこえをきく。
一九五八年八月某日。
中東動乱のニュース写真を
たたみの上にふみつけて
暑熱は彼女を裸体にした。
G子はドアを閉じ
洗面器の水をにごらせて
からだの隈をふきおえた。                
                            ―― 一九五八
                  『三重詩人 54集』(1961年7月)


【解説 ― 暮尾 淳】
 「半裸」を読み、その制作年月日を示す「― 一九五八」を見ていたら、ニュース映画というものがあったのを思い出した。わたしの中学生のころまでだったろうか、世界や国内の出来事だけを写して見せる小さなホールがデパートの最上階にあった。料金は十円だったように記憶している。普通の映画館でも、鞍馬天狗などの前座としてそれは流されていた。
 この詩はニュースドキュメントのように当時の世界情勢を描いているが、その焦点は「G子」に当てられている。「アルサロ」というのは、当時アルバイトサロンなどと言い、OLなど素人の女性が酒食の接待をするのを売り物にしていて、未亡人サロンなどというのもあった。もちろん怪しげな店は沢山あった。
 「一九五八年八月某日。」で始まるこの詩は、「ねむりのなかでG子はアルサロにゆくことをおもっていた。」という一行が、作者の立位置を自然に作品に溶け込ませ、急展開なのにもかかわらず、「半裸の人びとが銃をとって」以下の行に不自然さを感じさせない。イスラエルがアラブ主義を唱えるナセル大統領のエジプト領に侵入し、英仏軍も出兵したのがスエズ動乱で、「イラクの革命政府」とは、青年将校がクーデターを起こして王政を廃止し、アラブ民族主義を掲げて共和国樹立を宣言した一九五八年七月のこと。「中東動乱」は今も続いていて、イスラム教のシーア派とかスンニ派とか原理主義とか、アルカイダ、タリバンなど、秋山は知らなかったろう言葉を、わたしはテレビの画面で見ている。日常茶飯の無差別自爆テロなんていうのも、秋山は知らなかったろう。日本の自衛隊が、イラクでアメリカのために空輸活動に従事しているのを、秋山清ならなんと言うだろうか。
 この詩の巧みなところは、「気温が四五度をこえる」回教民族の国々から、冒頭の「一九五八年八月某日。」をリフレーンのように使い、たぶん新聞の「中東動乱のニュース写真を/たたみの上にふみつけて/暑熱は彼女を裸体にした。」と、「アパートの一室」へ戻ることにある。理科の実験を見ているような即物的な書き方であり、淫猥感とは見事に切れている。もっとも女性の裸体とくれば、すぐエロスに結びつけたがるのは、わたしに問題があるのかも知れない。「G子はドアを閉じ/洗面器の水をにごらせて/からだの隈をふきおえた。」そんなことはどうでもいいが、秋山はその一室にいたのだろうか。いたようないないような。いたとしたらその女性は「G子」にすり替えられている。よほど汗びっしょりだったのだろう。「洗面器の水をにごらせて」なのだから。「隈」には、奥まってものかげになったところという意味もあるが、それだからどうしたのという逞しい生活感がこの詩を締めくくる。「アルサロ」に働きに出るために、暑いアパートの一室で体の手入れをする「G子」には、新聞の「ニュース写真を」「たたみの上にふみつけて」という庶民の力強さがあった。
 ところで秋山はこの詩を書いたときに、金子光晴の「洗面器」という有名な詩を意識していただろうか。わたしは意識していたと思う。金子の「洗面器」は、わたしたちが顔や手を洗う洗面器にジャワ人たちはカレー汁をなみなみとたたえて道端で客を待っているし、「その同じ洗面器にまたがってカントン広東の女たちは、へうかく嫖客の目の前でふじやう不浄をきよめ、しやぼりしやぼりとさびしい音を立ててねう尿をする。」という散文脈の後で、「洗面器のなかの/さびしい音よ。」と書き出され、「人の生のつづくかぎり/耳よ。おぬしは聴くべし。//洗面器のなかの/音のさびしさを。」と終わる。洗面器にする女の尿の「しやぼりしやぼり」という「さびしい音」に、放浪の詩人金子光晴は零落の果てにも続いて行く人間の命というものを聴いている。プロレタリア詩人秋山清は、「半裸」で、「洗面器の水をにごらせて」と裸になった女を書いたが、そこには逞しい生活感が描かれていた。金子の詩が分からないような秋山ではない。だからこそ金子の「洗面器」のような詩になることを意識して避け、金子が必ずしもそうでないと言うのではないが、覚醒した視覚から言葉を紡いだのである。金子は水という永遠性につながる音に耳を澄ませた。
 秋山は『秋山清自選詩集』(秋山清・八十の会発行、一九八四年)に「半裸」を選んでいるから、この詩は気に入っていたのだろう。
                       
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