2011/10/18  18:45

第23回 コスモス忌のご案内  コスモス忌案内

 今年もコスモス忌のご案内を差し上げる季節となりましたが、大震災・福島原発事故という事態を、3.11以後として送る日々が、いまだに続いています。このようなことにたいして秋山清さんなら、どんな思いを発せられるかと考えたりもしております。

 今年の講演は、詩人の佐々木幹郎さんです。高校時代の友人であり1967年10月8日の羽田闘争で亡くなった山崎博昭氏を追悼した第一詩集『死者の鞭』(70年刊)は、鮮烈な衝撃を与えるものでした。以後、詩人としてだけではなく、評論や紀行文でも大きな仕事されてきています。また、最近では、詩と音楽のコラボレーションに関わり、東京芸大出身者による音楽パフォーマンス集団『VOICE SPACE』を創設、シンガー・小室等さんとの共作など、多彩な活動をされています。震災の被災地支援活動も積極的になさっています。

 今年の会場は築地の本願寺。前年までの会場が飲食できなくなりましたので移しました。本願寺は「(関東大)震災時に、築地本願寺も全焼しながら、酸鼻の被服廠跡へ僧侶たちは駆けつけて、死者供養と、生きのこりたちへの説教所、託児所もひらいた。さすがは大衆のただなかの浄土真宗。」(小沢信男「賛々語々17 震災忌」―『みすず』2011年9月号)です。

〇日時 2011年11月19日(土曜日)、13時〜17時。
〇場所 築地本願寺本堂内講堂
    東京都中央区築地3-15-1(TEL:03-3544-0551)

〇プログラム
   第一部 佐々木幹郎「秋山清の世界(仮題)」、13時〜15時。
   第二部 懇親会   15時30分〜17時。

〇会費  3500円 第一部のみ参加の場合は500円
     ☆受付は12時よりいたします。

□問合せ先 〒162-0801 東京都新宿区山吹町311 坂井事務所
       FAX:03-3260-4263
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2010/7/1  10:00

【秋山清詩選@ 「半裸」】  秋山清詩選

半 裸

一九五八年八月某日。
アパートの一室は三三度四の無風帯だ。
シュミーズ一枚で
G子はねむっている。
あれを着て出かけよう。
ねむりのなかでG子はアルサロにゆくことをおもっていた。
半裸の人びとが銃をとって
樹木が一本もみえない焼けた土砂のうえを
はだしで歩いている。
スエズの動乱から三年。
イラクの革命政府を日本は承認した。
気温が四五度をこえるシリア、ヨルダン、レバノン。
砂漠と石油の国。
東地中海から
ペルシャ湾におよぶ回教民族たちは
テント張りの茶店にねそべって
強力電波のカイロ放送からナセルのこえをきく。
一九五八年八月某日。
中東動乱のニュース写真を
たたみの上にふみつけて
暑熱は彼女を裸体にした。
G子はドアを閉じ
洗面器の水をにごらせて
からだの隈をふきおえた。                
                            ―― 一九五八
                  『三重詩人 54集』(1961年7月)


【解説 ― 暮尾 淳】
 「半裸」を読み、その制作年月日を示す「― 一九五八」を見ていたら、ニュース映画というものがあったのを思い出した。わたしの中学生のころまでだったろうか、世界や国内の出来事だけを写して見せる小さなホールがデパートの最上階にあった。料金は十円だったように記憶している。普通の映画館でも、鞍馬天狗などの前座としてそれは流されていた。
 この詩はニュースドキュメントのように当時の世界情勢を描いているが、その焦点は「G子」に当てられている。「アルサロ」というのは、当時アルバイトサロンなどと言い、OLなど素人の女性が酒食の接待をするのを売り物にしていて、未亡人サロンなどというのもあった。もちろん怪しげな店は沢山あった。
 「一九五八年八月某日。」で始まるこの詩は、「ねむりのなかでG子はアルサロにゆくことをおもっていた。」という一行が、作者の立位置を自然に作品に溶け込ませ、急展開なのにもかかわらず、「半裸の人びとが銃をとって」以下の行に不自然さを感じさせない。イスラエルがアラブ主義を唱えるナセル大統領のエジプト領に侵入し、英仏軍も出兵したのがスエズ動乱で、「イラクの革命政府」とは、青年将校がクーデターを起こして王政を廃止し、アラブ民族主義を掲げて共和国樹立を宣言した一九五八年七月のこと。「中東動乱」は今も続いていて、イスラム教のシーア派とかスンニ派とか原理主義とか、アルカイダ、タリバンなど、秋山は知らなかったろう言葉を、わたしはテレビの画面で見ている。日常茶飯の無差別自爆テロなんていうのも、秋山は知らなかったろう。日本の自衛隊が、イラクでアメリカのために空輸活動に従事しているのを、秋山清ならなんと言うだろうか。
 この詩の巧みなところは、「気温が四五度をこえる」回教民族の国々から、冒頭の「一九五八年八月某日。」をリフレーンのように使い、たぶん新聞の「中東動乱のニュース写真を/たたみの上にふみつけて/暑熱は彼女を裸体にした。」と、「アパートの一室」へ戻ることにある。理科の実験を見ているような即物的な書き方であり、淫猥感とは見事に切れている。もっとも女性の裸体とくれば、すぐエロスに結びつけたがるのは、わたしに問題があるのかも知れない。「G子はドアを閉じ/洗面器の水をにごらせて/からだの隈をふきおえた。」そんなことはどうでもいいが、秋山はその一室にいたのだろうか。いたようないないような。いたとしたらその女性は「G子」にすり替えられている。よほど汗びっしょりだったのだろう。「洗面器の水をにごらせて」なのだから。「隈」には、奥まってものかげになったところという意味もあるが、それだからどうしたのという逞しい生活感がこの詩を締めくくる。「アルサロ」に働きに出るために、暑いアパートの一室で体の手入れをする「G子」には、新聞の「ニュース写真を」「たたみの上にふみつけて」という庶民の力強さがあった。
 ところで秋山はこの詩を書いたときに、金子光晴の「洗面器」という有名な詩を意識していただろうか。わたしは意識していたと思う。金子の「洗面器」は、わたしたちが顔や手を洗う洗面器にジャワ人たちはカレー汁をなみなみとたたえて道端で客を待っているし、「その同じ洗面器にまたがってカントン広東の女たちは、へうかく嫖客の目の前でふじやう不浄をきよめ、しやぼりしやぼりとさびしい音を立ててねう尿をする。」という散文脈の後で、「洗面器のなかの/さびしい音よ。」と書き出され、「人の生のつづくかぎり/耳よ。おぬしは聴くべし。//洗面器のなかの/音のさびしさを。」と終わる。洗面器にする女の尿の「しやぼりしやぼり」という「さびしい音」に、放浪の詩人金子光晴は零落の果てにも続いて行く人間の命というものを聴いている。プロレタリア詩人秋山清は、「半裸」で、「洗面器の水をにごらせて」と裸になった女を書いたが、そこには逞しい生活感が描かれていた。金子の詩が分からないような秋山ではない。だからこそ金子の「洗面器」のような詩になることを意識して避け、金子が必ずしもそうでないと言うのではないが、覚醒した視覚から言葉を紡いだのである。金子は水という永遠性につながる音に耳を澄ませた。
 秋山は『秋山清自選詩集』(秋山清・八十の会発行、一九八四年)に「半裸」を選んでいるから、この詩は気に入っていたのだろう。
                       
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2010/2/1  1:20

秋山清「全電通詩人集団 第11回大会・講演」  未収録拾遺集

 全電通詩人集団の二年に一度の総会に招んでいただきまして、詩を書かれる皆さんと一緒に作品の批評に参加してきましたが、ここで一つだけ詩についてお話ししたいことがあります。昨日から議論してきたなかで既に出たことでもあり、それの総論でもあるのですが、別に私が考えていることでもあるのです。
 それは詩は誰のために書くかということ。皆さんが詩をそれぞれ書いてきて、いったい、詩は誰のために書いているのか、あらたまって言うのも可笑しいくらい、昔からの問題だと思います。戦後、地域にあるいは組合の中に詩のサークルができています。これは皆さんに関係ありませんが、当時、昭和25年から30年にかけてですが、昭和の初めころのプロレタリア詩運動の脈をひいているといいますか、政治的事件とか、政府のこととか、自分たちの労働時間、生活に関わる問題を詩運動に入れながら、結論として、政治的な意味を詩を読む側に判らせようと、つまり啓蒙しようと、詩を手段にした。それが少しも疑われなかった、そういう傾向があった。 
 戦後の文学のいちばん大きな課題はそれでしょう。戦争中のまた戦争以前の左翼文学には、左翼的な政治の立場からの文学の目的、つまり政治が主で文学は従である、政治の方針に依って、文学あるいは作品で何を書くかということまで左右されるという傾向があって、それが左翼の文学として戦争の前に強くなった。次に戦争の時代が来るとその人たちは、プロレタリアの時代は左翼的な、社会主義的認識の立場から書かれた、政治的な目的に沿って書いた習慣があり、それと同様に戦争になると国家のために、戦争のために右翼も左翼も作品を書くようになった。
 文学の面でいいますと俳句、短歌、詩、小説も文学報国会に組織されてしまいました。そのときの文学報告会は組織的に申しますと、会長が最初に島崎藤村で、詩人も全部入りまして、詩人会の委員長が高村光太郎でした。現在活躍している大阪の小野十三郎も入っています。私が一緒に仕事をしていた人が全部入っています。金子光晴が戦争反対の詩を書いて評価されていますが、彼も文学報国会に入って、第一回の総会に出席して帰って来て、私に「あのようなものには二度と出るものじゃないよ」とこう言っていましたが、「それは考えれば判ることで、出ていっていまさらそうゆうことを言うのは間が抜けているよ」と言ったら、「そうかそうか」と、彼は以後一度も出なかった。つまり昭和初めの8、9年に左翼文学組織ができて昭和12年に支那事変、太平洋戦争に入りますが約10年ぐらい国を挙げての戦争です。
 政治目的のために文学を活用する、それに対する反省として、戦後先頭をきったのが『近代文学』で、これは埴谷雄高、本多秋五とか平野謙などで、その連中は左翼的文学から出てきたのですが、文学は政治に従属するものはいかんという考え方で、ある者は共産党員で、ある者は社会主義者だったのですが、文学に就いての反省から、政治に文学が頭をさげるのではなくて、文学は政治とは質の違うものだ、だから政治が文学の主人であってはならぬという主張があって、それが論争となり、対立があるというような岐路を歩いてきて、ほぼ今では、文学は政治に従属しないというふうに認められてきたと思います。
 その問題をふまえながら、詩はなんのために書くのか、誰のためにかと、考えをもう一歩ずらして考えますと、私はこの問いを、いろいろの所で発して、私の生きる道を拓いてきた。いざそのように開き直ってきますと、さてはっきりその立場を考え、自覚している人は非常に少ない。やはり政治的なことにあるいは組合の方針に従属してはいかんということはいいますが、さて自分が何のために書いているのかと言われると、さて自分が何のために書いているのか、戸惑う。
 その問題を、私は非常に簡単に割り切って「自分のために書くのだ」と言います。自分のために書くと言うといろいろ誤解されるときもあります。自分のために書くのなら、人に見せる必要はないと、素朴な意見で反論する人がありましたが、私の考えているところでは二とおりの意味がある。
 一つは先ほど沖縄に行って書いた詩がありましたが、あの詩を見れば判るように、あそこで自分が何を書こうとしたのか、充分にとらえていない。しかし現在、この席でいろいろ批評し、彼女は自分の意見を述べたことで、かなり、何を書くべきだったかがはっきりしたと思います。それは自分が沖縄に行った感想のなかで、感動したものがどうゆうものだったか、沖縄に行って何を自分は考えたかはっきりさせることが、詩を書くことだし、詩を巧く過不足なく書いてゆくことであります。
 私が詩を書くことは、何かはっきりしないことでも、詩を書くことで自分の内部ではっきりさせなくてはならないということになります。哲学的な問題として捉えると、いかに自分が生きるかということになります。詩を書きながら大きな問題と取り組んで、自分の考えのまとまらない部分をはっきりさせる、自己形成してゆくということになります。
 もう一つ社会問題ついて述べると、今までの昭和初めのプロレタリア文学および戦争中の日本の詩は、書く目的があって、階級的な主張の宣伝であり戦争中は戦争のけしかけあいだった。
 戦後の場合は社会問題に対して自分との関わりをたしかめる、別な言葉で言うと自己確認です。どちらにしても自己形成に繋がるわけです。
 書くという中にじぶんをたしかめ、考えをあきらかにする。したがって、詩を書くことではっきりさせるのです。腑に落ちないと思うかもしれませんが、自分が詩を書く過程で解ってもらえると思います。もちろん効果としてコミュニケーションはありますが、目的ではないと思います。簡単な言葉で「詩は自分のために書く」とした主張のあることを心にとめておいていただきたい。 
              
「全電通詩人」67号(1977年12月20日発行)
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2010/2/1  1:19

白石明彦(『朝日新聞』編集委員)「アナーキスト詩人 秋山清著作集 完結」  反響集

 抵抗詩「白い花」で知られるアナーキスト詩人秋山清(1904〜88)の業績をまとめた『秋山清著作集』全12巻(ぱる出版)が完結した。権力と権威を認めずに生きた自由人の魅力に満ちた著作集だ。
 一貫してアナーキズム系の文学運動に携わり、戦前は小野十三郎と詩誌「弾道」を、戦後は金子光晴らと「コスモス」を創刊した。著作集には乃木稀典らを採り上げた詩人論集『近代の漂泊』、「政治と文学」論争にかかわった『文学の自己批判』、夢二論『竹久夢二』などの主著を収める。
 戦時中の「白い花」を「当時の日本における唯一の抵抗詩」と評したのは吉本隆明氏。妻子や故郷をおもいながらアッツ島で戦死した兵士を描き、戦争の非人間性を浮き彫りにした。
 文学者を統制した日本文学報告会にも加わらなかった秋山だから、高村光太郎ら詩人の戦争責任を追及する筆は鋭い。
 戦時中、「あなたの戦争詩が気に入らぬ」と光太郎を批判し、「発表しているばかりが私の詩ではない、私の詩は別にかきつつある」という意味の返信に絶望する。
 「戦中は戦争詩、戦後は民主主義詩人であり得た日本の詩人の転向の揚げ底的な浅薄さ」を論じた文章は、40年後の今も重い。
 編集委員は秋山雁太郎、奥沢邦成、久保隆、暮尾淳、黒川洋、高野慎三の6氏。本体価格は各巻3200〜6500円、別巻のみ8000円。

(『朝日新聞』07.5.15付)

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2010/2/1  1:18

暮尾 淳「詩人アナキスト秋山清 キナ臭い現代に復活」  反響集

 札幌の高校を卒業して東京の私立大学に入ったわたしが、初めて出会った大人の詩人は秋山清だった。1960年早春、二十歳になろうとしていたばかりの物知らずのわたしを、初対面にもかかわらず対等に遇してくれ、優しい笑顔を絶やさない三十五も歳上のこの詩人に、わたしは一目で魅せられてしまい、以後親炙するところとなり、それは1988年、八十四歳での死まで続いた。いや親炙という意味合いでいうならば、近づき親しんで感化を受けるということは、今でも続いている。「そっとこいねがうものは、煤ぼけた明治のこの方の自由と平等」と詩に書いた秋山は、その願いを手放さず、詩人としては数多くの論稿や著作を残してくれたからである。それらを読むと、わたしいつでも秋山に会うことができるし、その度に今を考え直す何かを見いだす。今回著作集編集委員の一人に加えてもらったことを、わたしは泉下の詩人に深く感謝している。
 秋山清は1904年(明治37年)、現在は北九州市に属する周防灘を臨む漁村に生まれ、漁民部落の相互扶助の生活のなかで育ち、上京して働きながら日本大学予科に入学(中退)、自由の少ない時代に自由を求める反権力権威の思想としてアナキズムを自らに課し、戦前は局清や高山慶太郎などの名でプロレタリア詩や批評を書いた。小野十三郎と二人で編集した詩誌「弾道」では、更科源蔵らの「北緯五十度」を「農本主義的な人道主義」であるとして激しく論争を挑んだりしたが=1930年(昭和5年)=、秋山清を他の詩人から抜きんでさせたものは、あの太平洋戦争下を辛くもくぐりぬけた詩人としての矜持であった。無政府共産党事件で検束された思想的「前歴」を持つ秋山のところには、週一、二回の憲兵あるいは特高の来訪があったという。近代総力戦争における国家権力の下で民衆が生きるしかなかった当時を振り返り、「孤立のかなしみ」=初出1959年=に秋山は次のように書いた。
 「私は深い洞察と先見の明があって、そのような態度を(日本文学報国会に入らず賛戦詩を書かない―暮尾注)とったのではなかった。世界の情勢もわからず、日本の頽勢もじっさいのことを知っていたのではない。無惨に敗北をするということもまだ確実には知っていない。ただ、戦争のために民衆の生活が不自由になり、貧しくなり戦争に皆駆り出されることに、ついてゆけないという自分の奥底の思いを否定しなかった。それは日本の社会主義の伝統を、忘れなかったからである。」
 文学を以って国に報いるという日本文学報国会は、内閣情報局の指導監督下で文学者を統制した団体で、詩人のほとんどは会員となった。あるいはならざるを得なかった。秋山は勧誘されても、何とかかんとか言い逃れて加入しなかった。「孤立のかなしみ」とは、高村光太郎はもちろん多くの知人友人が、文学報国会などの活動にやがて積極的に加わり、賛戦詩を書くことで、自分との距離がしだいに離れて行ったことをいう。しかしこの「孤立のかなしみ」に耐えることにより、秋山は多数から離れ、自我の真底からの崩壊を防ぐために、戦争下の一庶民として揺れながらも不同調のおもいをひっそりと詩に込め、業界紙の片隅などに載せることができた。敗戦後にそれらの詩篇を読んだ吉本隆明は、「ああこんな嘘のない真っ当な抵抗詩を戦争期に書き記していた詩人がいたんだ」と高く評価したが、小さな詩集「白い花」としてまとめられたのは、1966年のことであった。
 戦後の秋山は戦争下のこの苦い体験を噛み締めながら「人民詩精神」を掲げて金子光晴らと「コスモス」を創刊し、初期の新日本文学会にも力を注ぎ、一貫してアナキズムの思想的立場から文学に携わり、人間の自由とその社会の在り方を追及した。だがその死後は知る人ぞ知るというような存在だった。「日本の反逆思想」「ニヒルとテロル」「竹久夢二」「近代の漂泊」「文学の自己批判」「アナキズム文学史」などの著作は絶版のままだったが、今回全十一巻と別巻一(資料・研究篇)の「秋山清著作集」(ぱる出版)が完結し、その全貌を知ることができるようになった。何やらキナ臭い管理社会の現代に、詩人アナキスト秋山清は蘇ったのである。

(『北海道新聞』07.7.17付夕刊)
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